現在の場所:トップおじさんのひとりごと
旅の記録を整理しようと始めたこのページ。その都度記録すれば良いのだが、まめさの欠ける私にはなかなか整理が出来ずにいる。しかし、ふとした瞬間に旅先での記憶を思い出すときがある。楽しかったことも苦い想い出も色々ある。そんな記憶を少しずつ書き溜めていくことにする。そんなわけで思い違いも勘違いも多く、最新の情報とは違う所が多々あると思う。ここに書かれている事はあくまで「おじさんのひとりごと」です。
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トップページの言葉の意味
全て各国の 「大丈夫」  とか 「気にしない」 「問題ないよ」 という意味です。
多くの問題がこれで解決してしまうとても便利な言葉です。
コンサオ ベトナム khong sao
マイペンライ タイ mai pen rai
ボーペンニャン ラオス bou pen yan
ケイッサマシブー ミャンマー kate sa ma shi bu
オッパニハー カンボジア ott phan ya haa
メイウェンティー 中国 没問題
ベトナム
 ベトナムに行こうと密かに思い始めたのは1995年。1975年4月、サイゴン陥落で終わったベトナム内戦から20年が過ぎた頃だ。おじさんの年代の人は多かれ少なかれベトナム反戦を体験している。おじさんも大いに関わったその一人でベトナムとかけ離れた地にありながらその後の人生に大きな影響を受けた。未知の国でありながらいつも気持ちの中でその存在は大きかった。

それまで行こうとも行けるとも思いつかなかったベトナムが1995年8月、アメリカとの国交を回復してから旅行者にも開放され、訪れてみようとの思いがふつふつと沸いてきた。内戦から20年が経過し当時とは比較にならないだろうが、私のイメージしたベトナムと実際のそれがどうだったか確認したかった。まだ観光地としては未熟で危険な面もあったので一人で訪れることにした。「おじさんの一人旅」はここから始まった。

初めてベトナムの空港に着いた時飛行機の外は汗ばむほど蒸し暑く、シャトルバスに乗り込む前、涼を取ろうとふと頭上に輝く星を見た時、その頃放送されたテレビドラマの主題歌が頭の中を駆けめぐった。「私は今、南の一つ星を見上げて誓った。どんな時も・・・・・」今井美樹の「プライド」が暫く頭から離れなかった。

シクロ
 初めてベトナムに訪問した頃(1997)、シクロの多さが目立っていたが、回を重ねるほどその数はみるみる少なくなってきたように感じた。大通りから閉め出され、タクシー、バイクの数が増すたびにその数は少なくなって来たのだろう。

観光客から相場の値段よりも高い値段を要求し、トラブルが起こる事が多く、ガイドブックなどでも乗るのを薦めていない。何かと評判の悪いシクロ、このシクロの運転手は意外な一面も持っている。褐色の肌に鋭い目つき、明らかに鍛えられた身体を持つ運転手の多くは、かつての南ベトナム政府軍の兵士が多い。

世が世なら彼らは安定した裕福な階層にいた人も、南ベトナム消滅後彼らの職業も安定した生活も財産も全てを失った。再教育後、解放はされたが、戦後20年を過ぎても尚再就職では未だ差別されているという。彼らの子弟も同じで、スナックやバーで働く女性も元は裕福な家庭の出の人が多いと聞いた。

クチトンネルでのガイドさんは米軍との交渉の中で習得した語学力を生かし、解放軍の施設の説明をしていた。彼もまた元南政府軍の将校だったそうだ。

ベトナム戦争とモン族
ベトナム戦争から30年近くが経ち、遠い過去のように思われがちだが戦争処理は未だ終わってはいない。 ベトナム戦争時に米国に協力したことなどを理由に「ラオス国内で迫害された」少数民族のモン族約6500人がタイ国内に流入した。(2004~05)

モン族は中国南西部やベトナム、ラオス、タイ北部などの山岳地帯に住んでいて、ベトナム戦争時、米中央情報局(CIA)に協力して北ベトナム軍やラオスの共産勢力と戦った。75年にベトナム戦争が終わり、ラオスで共産主義政権が発足した後、弾圧の対象となった。ベトナム戦争終結当時故郷ラオスを出て難民となったモン族は30万人、多くが米国やカナダなどに移った。

タイ政府は過去、こうしたモン族を不法移民とみなして送還を試みたが、ラオス政府は彼らがラオス人ではないと主張してきた。ラオスでは、対米協力したモン族に対する差別的な扱いがあり、モン族の一部は武装組織を結成している。脱出モン族がラオス人であることを認めれば、国内の差別など、ラオス政府にとって、不都合なことも認めざるを得なくなるからだ。

タイに暮らすモン族の人達は、難民として保護される資格を失い、国籍のない不法滞在者として扱われるようになった。その数は2万人以上と言われている。アメリカ兵の約五万八千人に対し、ベトナム戦争で戦死したモン族の犠牲者は20万人以上。アメリカはモン族に対しても最後まで責任を取らなければいけないと思う。

2005年ようやくアメリカはラオスのモン族一万五千人の難民入国を認めた。まだまだ最近の出来事です。

OI
おじさんの名前はオオイ。ローマ字表記はOI。現地で仕入れたVIET(ベトナム)-NHAT(日本)辞書で、この字を引くとなんと「蒸し暑い」と出る。

一回ホテルでチェックインするときに、手元を見ていたフロントのお姉さんがクスクスと笑ったのをおじさんは見てしまった。確かに暑苦しい日に汗をかきながらチェックインした時だ。その時は何故かなと不思議に思ったが、後で辞書を見てこれが原因かなと少し納得した。
ラオス
ラオスへの初めてのアプローチはホーチミンからの空路の移動だった。その飛行機はホーチミンを飛び立った後メコン川を遡るように飛行し、一時間ぐらいでどこかの空港に到着した。着いた場所はプノンペンだった。滑走路の脇に止まった飛行機から多くの客はここでターミナルへと向かった。飛行機の中は清掃が始まりわずかに残った人たちは私を含め滑走路に出て休んでいた。日陰もないので翼の下で談笑し中にはそこで喫煙する人までいた。頭の上は燃料タンクなのに。

そうこうしていると新たな客が乗り込み始め再び飛行機は飛び立った。30分位して飛行機はまたどこかの空港に到着した。ヴィエンチャンへの到着時間よりかなり前なので今度は何処だろうかと、そこで乗り込んできた若者に聞いてみた。その空港はパクセだった。パクセからヴィエンチャンまでは国際線兼国内線のようだった。ヴィエンチャンに出稼ぎに行く若者達と彼らから貰ったビールを飲みながら話しているとまもなく飛行機はヴィエンチャンへと到着した。

2000年当時ヴィエンチャンの空港は真新しく綺麗だった。ターミナルに向かう通路で国内線の窓口に向かう彼らとはそこで別れた。

ラオス入国
ホーチミンを発ったATR-72(国際線はほとんどこの機種、これ以外は安全性が疑問視されている)はプノンペン、パクセを経由し、メコン川を遡り、ビェンチャン、ワッタイ空港に着陸した。日本の無償資金協力で建設されたこのさほど大きくない空港は、99年から利用開始されたばかりでとても綺麗だ。もっとも一日数本しか離発着しないので、空港の機能を十分活用しているとは思われなかった。到着ロビーまで歩いて渡るとその一角にアライバルビザ申請窓口がある。日本で取得すると2万円近くするビザもここでは30ドルだ。

ホーチミンから通しで乗ってきた外国人は私を入れて2名、プノンペンからの外国人は5名、パクセからはほぼ満員になったが、これは国内線のため降機と共に隣の国内線ターミナルに移動、人数が少ないせいばかりではないが、ビザ取得も入国審査もあっけないほど簡単に済んでしまった。税関では申請書が無くてもそのまま通してくれた。

両替所で3000円ほど両替(219、800キープ)をして外に出てみるとあまりに閑散としていて再度びっくり。ホーチミンのあの喧騒と比べると何か少し物足りないような気がした。タクシーの運転手も寄ってこない。ここではタクシー運転手ひとり一人が客引きをするのではなく、職員が代表として交渉するようだ。町までの公定料金は5ドル、安くあげるには隣の建物の国内線前にいるタクシーと直接交渉する。2ドル位にはなる。 タクシーは日本車が多いが中古車の中の字を取った車、おおよそ30年は経っているだろうか、日本ではまず見ることは出来ない年代物だ。振り返ると壁には、この日の到着便4便の案内版が懸かっていた。

空港から見える露出オーバー気味の風景と、長閑な人々を見ていた時、私の心はすでにトランス状態に陥っていた。

レンタバイク
ヴィエンチャンの街の中を散策するにはバイクがお手頃。免許は在った方がいいし、ヘルメットを被った方が良いに決まっているが無くとも何とかなる。ヴィエンチャンでは毎回同じバイク屋さんでバイクを借りることにしていて、お店のおばちゃんもおじさんの顔を覚えていてくれる。バイクを借りる時通常はパスポートを保証に預けるがおじさんには免除してくれる。

一回一方通行の道を3人乗りで見つかった時があった。そのお巡りさんは英語が通じずおじさんは警察署へ行こうと言ったがそれもしない。それを見ていた町の人がおじさんに5000kip(当時70円位)を彼に渡せと言った。彼はそれを受け取ると何事もなかったようにあっちへ行けと言う顔をした。おじさんも少し後ろめたかったが警官への賄賂はこれが最初で最後でした。

タイ
周辺諸国から、又はタイの地方からバンコクにはいるととても都会的に感じられる。タイの首都バンコクは近年の間にさらに交通網も整備され益々便利になった。バンコクで東南アジアのノスタルジックを感じようと思ってもなかなか難しいが、そこで埋没する人も結構多い。

バンコクが大都市の分、周辺諸国へのハブ機能は群を抜いている。とりあえずバンコクまで行きそこで次なる地域への移動手段を調達する。カオサン通りのツアーショップではほとんど希望のものが手に入り、チープな旅しかできないおじさんには便利な所だ。

スワナプーム新空港
ずいぶんと開港が遅れていたバンコク新国際空港の開港日が9月28日(2006年)に決定したそうだ。現在のドンムアン空港は大きい割には使い勝手があまり良くなかった。町へのアプローチも悪かったが新空港は2008年に完成予定の新都市交通線「CITY LINK」で、シティエアターミナル(CAT)も現在の地下鉄(MRT)のペチャブリ駅のすぐ近くに建設され、完成後はCAT発で運行される空港へのノンストップ列車が約15分でバンコク市内と空港を結ぶらしい。バンコク名物の渋滞を避けられると旅行者にはありがたい。

新空港は当初、建設地の地名の「ノングハオ空港」と呼ばれていたが、国王自ら「スワンナプーム空港」と命名した。タイ語でノングハオは 「コブラの池」 、スワンナプームは 「黄金の土地」 の意味だという。その名称の違いをみても、国王の喜びが伝わってくる。

微笑みの国タイの天使の都に、黄金の土地が加わった。

クーデター
2006年9月19日タイで、軍がタクシン政権に対するクーデターを起こし、首都バンコクを制圧した。1991年2月23日以来15年ぶり17回目のクーデターだ。

バンコクでは戦車が首相府を包囲。数百人の兵士が各地に展開したが、市内では軍や市民による衝突はなく、高架鉄道などの公共交通機関は正常に運行しているようだ。

前回のクーデターでも、大きな混乱や反対もなくスムーズに成功に終わり、拘禁されていたチャチャイ前首相も、クーデターの二週間後には軟禁を解かれた。前回、軍部のクーデターを支持してきたのは、政治的には無口な庶民だった。

今回はどうだろうか。今回も軍部は、為政者が国民を無視して私利私欲に走ったので、それを軍部が浄化するという大義名分を、前回同様理由にしている。しかし、軍が罷免したタクシン首相も庶民を味方に付けてきたはずだ。

おじさんには、民主主義が根付いてきて観光立国も目指す多くの国民には、軍部のクーデターに対しても、国民を助ける行為というよりも、国民を無視した暴挙と映っているように思える。タクシンも良くないが軍の行動も良くないと見ている人が多いのでは無いだろうか。

タイでは多くの国民の国王に対する信頼は絶大なるものがある。国が反タクシン派とタクシン支持派に二分されても、どちら側も国王を支持している限り、国王が先に支持を臭わせた方に最終的には従うようだ。 今回も大きな混乱が無かったのがなによりだ。

思い出したように繰り返されるクーデター。そのことをタイ人に聞いたら、きっとこんな答えが返ってきそうだ。こんなの普通、「マイ ペン ライ」。

ミャンマー
地図上で見るとホーチミン、プノンペン、バンコクを直線に結んだ延長線にヤンゴンが位置している。余談だがヴィエンチャンとそれらを結ぶと綺麗な三角形ができる。

ホーチミンから見ると随分北に位置しているヤンゴンだがおじさんが訪れた時は何れも強烈に暑かった。暑さと油(安食堂で使う椰子の油)にあたり海外旅行で初めて腹をこわした。生もの、水には随分注意していたが炒め物であたるとは思いもかけなかった。この油はマレーシアからの輸入品で現地の人もこれは良くない油だと承知していた。

ミャンマーには以前の中国のように旅行者には外貨兌換券(FEC)もある。入国時に強制両替させられるこのFECは、300ドルから200ドルに減額されたが1日10ドルで生活できるミャンマーでは使い出がある。二回目の訪問時おじさんはネットで調べた裏技を使い、この兌換券を交換しないで入国することが出来た。※2003年8月に外国人に対する強制両替を停止。

1964年以降政府は三度も突然紙幣の廃止をしたことがあった。闇経済への打撃を与えると言う建前だが一般の人はたまらない。このとき出てきた45Kや90Kといった中途半端な紙幣は現在は無いが、自国の通貨がこんな具合なのでドルへの依存度はますます高くなる。

なぜか首都移転
ミャンマーの軍事政権は2005年11月から、政府機関をヤンゴンから ピンマナ(Pyinmana) への移転を開始した。ピンマナ は、マンダレー管区にある都市で国土の南半分の中心部に位置し、ヤンゴンの約320km北にある。※現ネピドー 以降ネピドーを使用

現在の首都ヤンゴンよりも国土の中心に近くにあるネピドーの首都移転の理由は、ミャンマー政府によればより適切な位置にあるということになるがもう一つ真意が分からない。
○アメリカからの攻撃に備えるため。
○少数民族との内戦に備えるため。
○ニュー・ストレート・タイムズの『首都移転の影に占星術師』の説。
○軍事政権は都市部の市民を恐れているとの説。

様々な説があるがおじさんは最後の説が近いような気がする。高い教育を受けた国民や海外留学から帰った国民の増加により、そういった人々の多く住むヤンゴンで市民運動や革命が起こることを軍事政権は危惧している。制限されているとはいえヤンゴンにいる人は海外からの情報にふれる機会が多い。実際おじさんの知っているヤンゴンに住む人達も、通常タブーとされている政府批判を公然と言っていた。彼らは誰も現在のミャンマーの状況に納得している人はいない。

この首都移転がミャンマー軍事政権崩壊の前兆となるのだろうか。

2006年9月15日、国連安保理は軍政による民主化運動弾圧が続くミャンマー問題を正式議題とすることを日米などの賛成多数で決めた。決議や声明の採択にも道を開くことになり、米国が今後、決議案の提出を視野にミャンマーへの民主化圧力を強めることになるだろう。

椰子酒(タンイェー)
幻の酒と言われる椰子酒。いつか味見をしてみたいと思っていたがミャンマーでその夢は実現した。ガイドのマイケルとニラも話には聞いていたがその味を知らないと言った。場所もうろ覚えでまず場所探しから始まった。「水掛祭り」の最終日の頃、椰子酒を作っている村が分かったので出かける事になった。

ヤンゴン川を渡りそこからタクシーで一時間位のところにある村(トンティン村)。その村でサイカーに乗って尋ねて回ってやっと見つける事ができた。民家の庭先でゴザを敷いて竹筒で味わったその味はフルーツジュースみたいで飲みやすかったが、アルコールは4~5度ある。時間によって甘味と酸味が変わるらしい。

この酒は椰子の実からではなく樹液(ナツメヤシ)から作る、そのため量が少なくすぐ売切れてしまう。乾季の時が良く、雨季になると雨が入ってしまって出来がよくない。お土産にもできないので現地で運が良ければ楽しむ事ができる。

陳さん (台湾)
陳さんは出会った時七十代半ばの穏やかな感じで小柄な人だった。日本の統治下で出生した彼は勿論日本語はペラペラだった。台湾を旅しているとこうした日本語を話すご年配に良く出会う。若い人の中にも日本語を話せる人は多くいて、英語で尋ねても日本語で返す人が多くびっくりする時もある。

陳さんと電車の中での話。
彼は今の日本の生活や環境にとても興味を持っていて、様々なことを私に聞いてきた。私の話に彼は日本と台湾の現状を比較して、現在の日本の生活をうらやみ懐かしそうにふとこう漏らした。

「私もこの国も昔は日本だった。」

それは日本や日本人に対する嫌みではなく、日本の一部であったままの方が良かったかのような口ぶりだった。日本人のおじさんを目の前にして、日本の悪口はそうそう言えないだろうが、日本を盛んに持ち上げていた。自分も昔同じ仲間だったと何度も強調していたし、自分がかって日本人だったことをとても懐かしがっていた。

台湾も韓国も日本に侵略され同じような経過をたどったが、韓国とは同化で台湾は植民地として扱われていた。台湾の方が韓国より旧日本軍に対する反感は強いと思っていたが、おじさんの出会った台湾の人の多くは陳さんのように、日本に好感を持っている人が多かったように感じた。
本省人である陳さんの言葉だけに何時までも強く印象に残った。

台北と高雄
これも前項、陳さんのお話。
台湾の首都"台北"と第二の都市"高雄"。日本人の多くは台北を「タイホク」ではなく「タイペイ」という。ならば高雄は「タカオ」ではなく「カオシュン」ではないか。おじさんも陳さんとの会話の中で「タイペイ」と「タカオ」を使っていた。最初これは彼の愛国心からくる拘りかなと思っていたが、彼は違うらしく台北を「タイホク」と呼んでくれといった。なぜなら私も日本人だった子供の頃「タイホク」と呼んでいた。

彼の意識の中では日本人だった頃の記憶が、未だ完全には拭いきれていないようだった。

一人旅の勧め
旅を起承転結風に置き換えると次のようになるかもしれない。
起---計画。
承---旅先での出会い、見たもの。
転---旅先での予定外の出来事、新発見。
結---旅先での記憶を記録する。
どの時点でも旅を感じて楽しめるし自分だけの世界に入ることが出来る。 ここでは一人旅の楽しさをおじさんなりにまとめてみた。

起---計画
行き先
基本的に行き先にはそれ程こだわらない。時間も金も自前の旅ではそれに合すしかない。本格的な一人旅の起点となったベトナムだけは多少思い入れがあった。ベトナム反戦を経験した私達の年代は多かれ少なかれベトナムのその後を気にしている。しかしベトナムに行こうとも行けるとも思っていなかったおじさんに、終戦から20年が過ぎた頃その機会が訪れた。

その行程でベトナム戦争に対するラオスの関わりを知りラオスに足を向けるようになった。暫くメコン川を遡る旅が続いた。旅の口実は見つけるがそれでも行き先にはそれ程こだわらない。何処へ行っても何度目でも当然新しい発見はあるわけでいつも新鮮な気分を味わえる。ネットサーフィンのように次から次へと発展していく様子が楽しい。

計画・移動
行き先が決定し計画を練り出した時から既に旅は始まっている。その時間が長いほど至福の時間が増え楽しい。年に数度の旅だからその時間はたっぷりある。まず行き先が決定したら目的地までのアプローチを考える。安く行くに越したことはないから時間に余裕が有れば途中降機のコースも候補に入れる。

ワールドパークス会員なのでマイレージを貯めたい所だが、時期によって格安航空券が見つかればそちらを優先する。東南アジアの場合はタイを経由する場合が多いが、タイから先の移動手段はタイで手配する。タイから先は飛行機にしようか列車にしようか、バスにしようか、乗り場所は何処か、到着場所は何処か、乗り継ぎはどうか、色々考えたり調べたりするのも楽しい。※2011年ワールドパークスの改悪によりMilagePlusに移行

情報
最近の情報収集は本当に楽になった。情報はインターネットの中にあり、居ながらにして世界中の情報を手に入れることが出来る。初めての場所を訪れる時、前に訪れた人が何を観て、何を感じてきたかを知ることはとても重要だ。また,情報の中から新しい場所を見出すことも出来る。少し情報過多の気もするが、各人が自分合ったものを選択すればいいし、全部が正しいものでなくても構わない。キーワードは山ほどある。ネットで情報のつまみ食いも楽しい。

地図、本
あなたは修学旅行で訪れた街を次は1人で巡ることが出来ますか?残念ながらおじさんには出来ませんでした。確かに修学旅行の前には訪れる街の地図や行程を学んでから行ったはずなのに。修学旅行は仲間との思い出作りが大きな目的で旅行の趣旨が違うのでそれはそれで良いかも知れない。それでも後に偶然その街を訪れた時に方向や位置関係も解らないとかなり寂しい気がした経験は私だけではないと思う。セットされた旅行ではそれも仕方ない。

しかし一人旅ではここが大きく違うところで、自分で計画し調べて訪れたところは二回目に訪れても前回の記憶が瞬く間に蘇る。路地裏の安宿も美味しかった屋台もすぐに見出せる。学生の頃教科書で覚えた地名は忘れても自分の足で歩いたところは小さな町でも決して忘れることはない。下調べが充分なほど帰ってきてからの記憶は鮮明に残っているもので、地図を見ているだけでも楽しい。

参考本
私は若い頃本を買うのにちょっとだけ自分なりのポリシーを持っていた。私の本を買う規準は金を出して買う以上後々まで取って置けるもの、大げさに言うと子供の代にまで残せるもの、それに似合うものを選んで読んでいた。それらの多くは何百年も読み続けられたもので、数年後には忘れ去られるかもしれない日本の「今年の○○賞」受賞作品は少ない。

おじさんの域に達し始めた頃その嗜好が随分変わってきて日本の歴史書が多くなった。現在の愛読書は司馬遼太郎の「この国のかたち」。日本の生い立ち、転換期を解り易く解説してくれ何度読んでも飽きない。併せて訪れる先の国なり地域の少し丁寧な解説書を読む。例えばアンドレ・キャラビの本。教科書では書ききれない歴史を地域ごとに解説してある。

東南アジアの変革と日本の歴史をそれらの本で比較すると妙に重なる部分が有ったり、その国のターニングポイントがある時点だったり、今だったりとその国を自分なりに理解できたような気がする。これも旅の楽しみの一つに入るだろうか。

マイレージプログラム
航空会社は各社マイレージプログラムを用意している。私はワールドパークス(NW)に入っているが最近はほとんどNWを利用していない。東南アジア行きが多い私は最初タイを目指す場合が多いが、ワールドパークスでは一年中ほとんど予約が取れない。

しかしワールドパークスを利用してのフライトは意外と多い。どういうことかと言うとNWとの提携会社を使う。提携会社の航空券は意外と予約が取り易い。しかもNW便が飛んでいない地域(乗り継ぎも可=例えばマレーシアに行って乗り継いでミャンマーに行っても)まで同じマイル数で行くことが出来る。時々提携先の航空会社がキャンペーンをしている時があり、現在は提携していないが、以前(2000年)OZのビジネスを少ないマイル数で利用したこともある。現在NWはMHと提携していてMHのキャンペーンの期間に当たったこともあった。ビジネスクラスを利用した三回はいずれもこの幸運な時期だった。当然これしかビジネスは使えない。

各社様々なマイレージプログラムはあるが飛行機に乗らなくともマイレージを貯める方法はある。買い物をしたり最近では公共料金(電気代等)、病院代までカード決済が出来、知らず知らずマイレージは貯まる。極端な話200万円買い物をすればアジアに一回行ける計算になる。マイレージの使い方を考えるのも楽しい。※2011年ワールドパークスの改悪によりMilagePlusに移行

承---旅先でのこと
空港までのアプローチ
日本からの脱出は大方が飛行機にならざるを得ないが、海外の空港と比べ日本の国際空港は都市部から時間がかかりすぎる気がする。田舎暮らしのおじさんにはまず空港に行くまでが大仕事である。

現地での空港から町までのアプローチの方法も色々ある。現地係員のいる場合は必要ないが一人旅の時は少し工夫をするとすると随分安くなる。これからは使う場合は無いがドンムアン空港からバンコク市内までの例で進めたい。選択肢は空港タクシー、鉄道、バス、タクシーとあるが空港タクシーは事前にクーポン券を買う必要があり、車はベンツを使っているが高すぎてNG。鉄道も本数が少なく利用しづらいのでNG。

次善策はエアポートバス。宿泊予定地にもよるが旨く使えば安上がりだ。ベストはタクシー。しかし一階の到着ロビーでタクシーを拾ってはいけない。空港に出入りしているタクシーは入場料を払っているので割高。到着ロビーから吐き出されたらそのまま出発ロビーに向かい四階の出発ロビーで、空港にお客を届けた一般のタクシーを拾う。空港の職員が目を光らせているがタクシーも商売、旨くその場をやり過ごしてくれる。

そこには同じことを考えている人は必ずいて、到着ロビーにいる彼らとをシェアするとかなり割安になる。また、彼らは恐らく安く便利の良い場所に宿泊するのでそのまま付いていっても良いかもしれない。一度フランスの女の子にタクシーのシェアを頼まれ、冗談に部屋もシェアするのかと聞いたら彼女は笑いながらはっきり答えた「NON」。

ホテル
深夜に現地に着く場合ホテルの予約がないと随分心配な気がする。しかし少し自由な時間があればホテルは何処にもあるからそれほど心配しなくても大丈夫。まず予算を決める。似たような料金のホテルは似たような場所に集まっている場合が多いからとりあえずその地区まで行って探すほうが早い。

最初の頃のツアーでの参加は高級ホテルが多かった。ロサンジェルスでは五つ星、広州では一泊の値段が現地の人の半年分の収入と同じくらいの、北の将軍様が使ったホテルにも泊まったこともあった。高級ホテルではそれなりの楽しみ方もあるがおじさんにはどうも敷居が高い。

一人での旅は泊まるところ自体あまり執着しないので一泊100バーツ(300円)の個室なんてのもある。これ位になるとシャワーも付いていない。共同のシャワー・トイレを使うから人と接する機会も多くなり様々な人と出会うことになる。これはこれで楽しい。

たまには少しだけ高級なホテルに泊まりたい時もある。しかし現地で直接手配すれば日本でのそれの半分以下。さらにツアーデスクを持っているホテルでは直接ホテルのフロントではなくホテル内のツアーデスクで申し込む。それだけでさらに格安になる。空港で紹介しているホテルもホテルに直接申し込むよりも通常は安い場合が多い。ホーチミンでは「ドラエモンカカ」の女の子に近くのサイゴンホテルを紹介してもらうと通常料金の三分の一位になる。中・高級ホテルの実際の相場は、時季にもよるが大体ガイドブックに載っている三分の一ぐらいが目安か。

高価なホテルも安宿も実際泊まって見なければ良くわからないが、良くも悪くも想い出の一つや二つは残るものでそれを振り返るのも楽しい。

食物

地酒

インターネットカフェ

転---旅先での予定外の出来事、新発見
ニューハーフのボビー

町の中にいた象

シクロの運ちゃん

ラオスで会ったマレーシア人

帰省中のモン族出身の人

ミャンマーの水掛祭り

マイケルとニラ

結---旅先での記憶を記録する
当初旅先での写真を整理するつもりで作り始めたこのサイトも随分数量が増えた。最初は一眼レフのカメラから最近では四代目のデジカメに変わり随分写真の見栄えが良くなってきた。ような気がする。

未掲載の写真自体はまだかなりあるがあまりマニアックな物は省いて一般的な物だけを掲載するようにした。web環境も随分変わり大きなサイズの写真も無理なく表示できるようになって、本来のイメージが少しでも多く伝わるようになってきたのは嬉しい限りだ。大量の写真の中から取捨選択する作業は大変だが、それら一枚一枚に思い出があり、眺めているだけで現場での状況を思い出して楽しい。

プロフィール
「おじさんの一人旅」をご覧になって頂いてここまでたどり着かれた方は少ないと思います。隅々までご覧頂きありがとうございます。このサイトはおじさんが、何時の頃からか家庭を顧みず、海外に一人で足を運ぶようになった、好奇心旺盛な不良中年のページです。「一人旅」と言いながら全て一人でと言うわけにも行かず、家族や仲間との旅行も含まれています。家族や仲間で出かけるのは比較的安全といわれる所。一人での旅はやはり未知なるものを求めてしまいます。

渡航歴を振り返ると同じ場所に連続して訪れる傾向が在るようです。最近は東南アジアばかりですが、数年の間にも各国は大きく様変わりしていて驚かされることばかりです。また、唯物的ではない精神的な面で彼らから得るものはとても多くあります。おじさん同様、ご覧になった人が少しでも元気が沸いてくるようなサイトに仕上がっていけば良いなと、少しずつ書き加えて行く事にします。

おじさんには試験で使うような英語は話せません。冗談で旅先での私の英語はトラブル英語ですなどとよく言っています。この トラブル(trouble) トラベル(travel) トラバーユ(travail) が全て同じ語源である事を知りました。サッカーの中田は「人生とは旅であり、旅とは人生である」と言って引退(06-7)しましたが、確かに人生にも旅にも困難・苦悩は付きものですね。その困難の中で自分が少しでも成長できればと思いますが。

人生 Fifty/Fifty
おじさんはこの言葉が好きでよく使います。

陰と陽、+と-、男と女、善と悪、強と弱、明と暗…等々。 何かを知るためにはその対極のものを理解しなければ解かりません。

人生良いこともあれば悪いこともあります。お金があっても時間がない。生活水準が向上しても、逆にそれによって縛られる生活。情報社会、便利になった分それが原因となる事件も多発。ニュースを見ていてもこう感じることは多々あります。

「LIVE」(前向きに生きる)の裏返しは「EVIL」(邪悪)になる。 幸福の後には苦痛への備えを、不幸ばかりも続かない。

物事のほとんどは「行って来い」だと思っています。

世の中、常に相対するものが存在しバランスが取れている。 これが自然の法則ならば、流れに身を任す生き方も案外ポジティブかも。

趣味
旅行と写真が趣味というと必然とこのようなサイトを作ってみたいと思うのかもしれません。しかし、一番楽しく時間を使えるのは旅行の計画を立てている時です。少ない時間を有効に使うにはどうするか。移動手段、現地の状況、宿泊、地形などをあれこれ探っている時が至福の時間です。
実際の旅行期間より、計画を立てている時の方が圧倒的に長いので、これは結構楽しめます。

おじさんの渡航歴

1980年 8月 香港
    フィリピン
1985年 3月 香港
    中国
1988年 1月 台湾
1991年 11月 アメリカ
    メキシコ
1993年 2月 シンガポール
    マレーシア
  6月 グアム
1994年 9月 タイ
1995年 1月 シンガポール
  2月 ハワイ
  6月 韓国
1996年 2月 香港
    マカオ
  3月 中国
1997年 2月 台湾
  6月 ベトナム
1998年 1月 ベトナム
  5月 韓国
  7月 韓国
1999年 2月 韓国
    ベトナム
  9月 タイ
    カンボジア
2000年 2月 韓国
  11月 マレーシア
    ベトナム
    ラオス
2001年 2月 タイ
    ラオス
  4月 タイ
    ミャンマー
  9月 タイ
    ミャンマー
    ラオス
2002年 2月 マレーシア
    タイ
    ラオス
2004年 10月 タイ
    ラオス
2005年 11月 マレーシア
    ベトナム
    カンボジア
    タイ
2008年 2月 タイ
    マレーシア
2009年 4月 タイ
  5月 中国
2010年 11月 タイ
    韓国
2012年 10月 タイ
    スリランカ
2014年 6月 台湾
    ベトナム
    シンガポール
    タイ
  7月 ミャンマー
    中国(深圳)
    香港
2017年 4月 イタリア
    ドイツ
  5月 チェコ
    オーストリア
    ハンガリー
    ベルギー
    フランス
    イギリス
    オランダ
    香港
2018年 5月 グアム(予定)